2016年1月2日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 43

チュイルリー宮殿を離れる国王一家。
王妃のためであれば自分の命に代えてでもと、フェルセンはマリー・アントワネットが希望する国外逃亡に全ての情熱を捧げます。
プロヴァンス伯

逃亡に必要な資金集めに始まり、大型馬車の注文、逃亡中の食糧、偽のパスポートの準備、信頼を寄せられる護衛兵の選抜・・・・
逃亡は1791年6月20日夜と決まり、
吟味に吟味を重ねた準備も無事に完了。

その日、いつもの変わらぬ生活を衛兵たちに見せるために、リュクサンブーク宮殿に暮していた王弟、プロヴァンス伯爵夫妻とゲームを楽しみます。

頃を見計らい、プロヴァンス伯爵夫妻はリュクサンブーク宮殿へと戻ります。彼らもその同じ日に、別のルートで国外脱出を企てていたのです。亡命先はドイツのコブレンツで、そこは亡命貴族が多数暮していました。
プロヴァンス伯爵夫人
無事にコブレンツに逃れたプロヴァンス伯は、革命を生き延び、1815年、王政復古でルイ18世を名乗ります。

国王一家は急いで逃亡のために偽装をします。国王は下僕に変装し、王妃はシンプルなドレスにヴェールつき黒い帽子、王子はプリンセスのドレスを嫌々に着て、王女も平服。同行する王妹エリザベットも
地味な服。

20日、真夜中を過ぎたころ、バラバラに宮殿を離れた一家は、無事にレッシェル通り近くに準備しておいた馬車に乗る。脱出に時間がかり、その時点ですでに予定より遅れ、それが致命傷になるのです。

21日、朝1時50分過ぎ、約2時間遅れで逃亡用の豪華な大型馬車に乗り換える。その後に、逃亡中の必需品が入っているもう一台の馬車が続く。

亡命の準備に
すべての情熱をかけた
フェルセン。
20時30分、ボンデイまで馬車を操っていたフェルセンが、そこで別れを告げます。それは、すべての準備をしたフェルセンが、万が一のときに危険だと思った国王の希望だったのです。

選り抜きの衛兵隊が途中から護衛にあたることになっていたので、逃亡は楽しい旅の雰囲気でした。ところが予定していたシャロンでも、サン=メノーでも、護衛にあたる兵の姿が見えない。

あまりの遅れに、待機していた衛兵隊が、予定が変更されたに違いないと勝手に判断し、部署を離れてしまったのです。軍服でうろうろしている彼らを、住民たちが不審に思い始め、いずらくなったのも解散した理由のひとつでした。

護衛もなく、不安にかられながらサント=ムヌウを通り過ぎようとしていた二台の馬車は、目立って立派でした。それを不審に思った人がいました。サント=ムヌウの駅長ドルーエです。彼の鋭い勘が、国王一家が国外逃亡を図っているに違いないと睨んだのです。

この28歳のドルーエが、歴史を大きく変えるのです。