2016年3月7日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 64

国王夫妻と二人の子供たち。
夫を失い、息子と引き離され、娘と義理の妹と暮すようになったマリー・アントワネットの唯一の楽しみは、小さな明かり取り窓から庭を見ることでした。

その庭を、シモンに連れられて王子が時々散歩していたのです。会うことができない我が子の姿を、一瞬でもいいから見たい。そのために王妃は、いつ現れるか分からない王子を見逃したくないと、朝からじっと佇んでいたのです。明り取り窓から身動きすらしない王妃は、名のないひとりの哀れな母でした。

タンプル塔から
コンシエルジュリーに移される王妃。
けれどもそれもできなくなる日がすぐにやってきます。
王妃はタンプル塔から、「死の控え室」と恐れられていた、コンシエルジュリーに移されることになったのです。

パリ発祥地のシテ島に10世紀に建築された宮殿が、宮廷の移動に伴い、最高法院が置かれることになったのは14世紀。
王宮管理者であるコンシエルジュが控えていたコンシエルジュリーは、それ以後、最高法院の管理者が詰めるようになります。その一部が監獄となり、主に重要な政治犯が捕らえられていました。革命のときには多くの人がここに収容され、処刑場へと連行されていたのです。

76日間王妃のお世話をした
ロザリー。
マリー・アントワネットは8月2日夜中に突然起こされ、コンシエルジュリーに連行されることを告げられます。すでに多くの悲劇を経験した彼女は、自分の身に何が起きようとも、びくともしませんでした。

しっかりした足取りで迎えの馬車に乗り、コンシエルジュリーへと向った彼女は、その時点ですでに自分の運命を悟っていたに違いありません。

独房に入れられた王妃の世話は、25歳のロザリー・ラモルリエールが最期の日まで行っていました。

靴屋の娘として生まれたロザリーは、コンシエルジュリー看守長リシャール夫妻に1年前から雇われていたのです。

王制復古の際に王妃に関する尋問を受け、質問に細かく答えたために、コンシエルジュリーにおける王妃の様子をしることができたのです。
牢屋の壁布の糸を使用して
王妃が作ったタペストリーと、
その上は壁布の切れ端。
79歳でパリのホスピスで世を去った彼女は、モンパルナス墓地に埋葬されます。結婚はしていませんでしたが、娘が一人いました。

タンプル塔から何の前触れもなく、強引にコンシエルジュリーに入れられたマリー・アントワネットは、看守長リシャールによって280番目の囚人として記録されました。

彼女の牢屋は3,5平方メートルの小さな部屋でした。それを屏風で二つに区切り、片側ではふたりの看守が24時間監視していたのです。

時折、ほころびている壁布から糸を作り、それを使って刺繡をすることもあったし、指輪を手の中で転がして、時間をつぶすこともありました。与えられた本に目を通すこともありました。けれども、窓の外に見える中庭に出ることは禁止されていました。
彼女は一日中牢屋に閉じ込められていたのでした。