2016年3月19日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 67

法廷で凜とした姿勢を崩さない王妃。
10月12日夕方6時、非公開の予審が始まります。
この日、コンシエルジュリーに隣接する革命裁判所に立たされたマリー・アントワネットの傍らには、弁護士はいませんでした。

すり切れた喪服で
牢屋に戻った王妃。
彼女はたったひとりで自分の弁護をしなければならなかったのです。
けれども、誰もが驚いたことは、王妃は言葉を選びながら、次々に浴びせられる尋問に立派に答えたのでした。しかも、彼女の母国語のドイツ語ではなく、外国語であるフランス語での裁判だったのです。このことからマリー・アントワネットが、いかにフランス語に長けていたか分かります。その裏には、知られざる大きな努力があったはずです。

王政が廃止され、国王はルイ・カペーと呼ばれるようになり、彼の処刑後、王妃は「カペー寡婦」と呼ばれていました。
それにもかかわらず、革命裁判所で名を述べるように言われたとき、自分が誇りを持っている本来の名を告げます。

「マリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・ドートリッシュ、37歳、フランス国王未亡人」

それは明らかに革命政府への反発です。マリー・アントワネットは危険を充分に承知していました。が、何事にもひるまず、自分の意志を貫いたのです。この彼女の勇気は尊敬するに値します。

尋問は王妃の莫大な浪費、チュイルリー宮殿からの国外脱出、亡命貴族や実家オーストリア王室と連絡を取り合い、革命を終わらせる目的で軍隊派遣を依頼したこと、カーネーション事件などに及びました。

そのひとつひとつに明確に答えた彼女は、母マリア・テレジアが誉めるに値する立派な王妃だったのです。